February 27, 2010
ハリウッド 100 年史講義
ハリウッド100年史講義―夢の工場から夢の王国へ 北野圭介 著
この本は 19 世紀末に生まれた映画の歴史を、その中心地ハリウッドの動きから見たものである。
著者は大学の映像学部教授で、映画を学術的研究の素材として扱っており、大学の「映画史」の授業ではこういう話をするのだろうな、と想像するような内容だった。
全体としては「ふ〜ん」という感じだったのである。
しかし、そんな中で一つ、長年なんとなくモヤモヤしていたことが、なるほど!と腑に落ちたので書いておこう。
それは、100 年以上の間に作られた様々な作品のうち、ちょうど自分が生まれた 1968 年あたりの作品を境に、作品との距離が違って感じられるという話だ。
自分が生まれた以降の作品は映画として観るのだが、それ以前の作品は、映画というより歴史資料という印象が先に来るのだ。
この違いは何だろう?ということが、前々から少し気になっていたのだ。
この本は 19 世紀末に生まれた映画の歴史を、その中心地ハリウッドの動きから見たものである。
著者は大学の映像学部教授で、映画を学術的研究の素材として扱っており、大学の「映画史」の授業ではこういう話をするのだろうな、と想像するような内容だった。
全体としては「ふ〜ん」という感じだったのである。
しかし、そんな中で一つ、長年なんとなくモヤモヤしていたことが、なるほど!と腑に落ちたので書いておこう。
それは、100 年以上の間に作られた様々な作品のうち、ちょうど自分が生まれた 1968 年あたりの作品を境に、作品との距離が違って感じられるという話だ。
自分が生まれた以降の作品は映画として観るのだが、それ以前の作品は、映画というより歴史資料という印象が先に来るのだ。
この違いは何だろう?ということが、前々から少し気になっていたのだ。
具体的に言えば、私にとって映画の古典とは、「2001 年宇宙の旅(1968)」「M★A★S★H(1970)」「ダーティハリー(1971)」「ゴッドファーザー(1972)」「タクシードライバー(1976)」「ロッキー(1976)」「イレイザーヘッド(1976)」「アニーホール(1977)」そして「スターウォーズ(1977)」あたりの作品になる。
これらの作品は私にとって歴史資料ではなく映画である。
最近の作品と全く同じ感じで楽しむことが出来る。(感情移入出来る)
一方、それ以前の作品、例えばヒッチコックやチャップリンなどの作品は、面白くても、それは映画というより、まず歴史資料と感じるのだ。
(よりはっきりするのが黒澤明の作品だ。「赤ひげ (1965) 」までのモノクロの作品は歴史資料、「影武者 (1980) 」以降の作品は映画、と感じるのだ)
なぜだろう?と何度か考えた。
まず考えられるのは、カラーかモノクロかということだ。
確かにこれは大きいと思う。
しかし、例えば「風と共に去りぬ(1939)」はカラーだが私には歴史資料だし、「シンドラーのリスト(1994)」はモノクロだが映画なのである。
カラーかモノクロかだけの問題ではないように思えるのだ。
また、ちょっと話がズレるが、アニメでも同じ事が言えて、「鉄腕アトム (1963) 」「巨人の星 (1968) 」は歴史資料で、「あしたのジョー (1970) 」「ルパン三世 (1971) 」は感情移入出来るという話なのだ。
何か別な理由があるはずだ。
やはり生まれた年ということなのかな?、、、いやいや、生まれてすぐに映画やテレビを観たわけではないからそれはない。
と、考えていたのだ。
そして今回、この本でなるほどと思う理由にめぐりあえたのである。
それは、
つまり、映画(映像作品)というもののカタチが確立されるまでのフェイズと、そのカタチをベースに表現そのものを考えるというフェイズの境目が、たまたま 1968 年頃だったのではないか?ということだ。
そしてそのフェイズの違いが、例えばスケートにおいて、転けずに滑ることを目指すフェイズと、転けないのは当然としてどう滑るかを考えるフェイズの違いのように、観る人に異なる印象を持たせたのではないか?ということである。
うん。そんな感じがする。
で、そう考えると、生まれた時からインターネットに慣れ親しだ世代が社会に出てきたとき、なにか凄いことが起きるような気がしてくるのである。
これらの作品は私にとって歴史資料ではなく映画である。
最近の作品と全く同じ感じで楽しむことが出来る。(感情移入出来る)
一方、それ以前の作品、例えばヒッチコックやチャップリンなどの作品は、面白くても、それは映画というより、まず歴史資料と感じるのだ。
(よりはっきりするのが黒澤明の作品だ。「赤ひげ (1965) 」までのモノクロの作品は歴史資料、「影武者 (1980) 」以降の作品は映画、と感じるのだ)
なぜだろう?と何度か考えた。
まず考えられるのは、カラーかモノクロかということだ。
確かにこれは大きいと思う。
しかし、例えば「風と共に去りぬ(1939)」はカラーだが私には歴史資料だし、「シンドラーのリスト(1994)」はモノクロだが映画なのである。
カラーかモノクロかだけの問題ではないように思えるのだ。
また、ちょっと話がズレるが、アニメでも同じ事が言えて、「鉄腕アトム (1963) 」「巨人の星 (1968) 」は歴史資料で、「あしたのジョー (1970) 」「ルパン三世 (1971) 」は感情移入出来るという話なのだ。
何か別な理由があるはずだ。
やはり生まれた年ということなのかな?、、、いやいや、生まれてすぐに映画やテレビを観たわけではないからそれはない。
と、考えていたのだ。
そして今回、この本でなるほどと思う理由にめぐりあえたのである。
それは、
「映画小僧(film brats)と俗称された、生まれた時から、劇場やテレビを通じて映画作品に慣れ親しんできた若い世代の監督たちです。彼らは、六〇年代後半から急速に数を増やし充実したカリキュラムを整えはじめた大学の映画学科に通ったり顔を出したりした連中で、企画や脚本執筆から撮影、編集にいたるまで、基本的なレベルではあるものの、一通りすべて映画作りのノウハウを学習した上でハリウッドにやって来たという、全く新しいタイプの映画人だったのです。これらの若い「映画作家」たちが、次々と作品を発表し注目を集めはじめたのも、七〇年代の一つの大きな特徴なのです。という話だ。
つまり、映画(映像作品)というもののカタチが確立されるまでのフェイズと、そのカタチをベースに表現そのものを考えるというフェイズの境目が、たまたま 1968 年頃だったのではないか?ということだ。
そしてそのフェイズの違いが、例えばスケートにおいて、転けずに滑ることを目指すフェイズと、転けないのは当然としてどう滑るかを考えるフェイズの違いのように、観る人に異なる印象を持たせたのではないか?ということである。
うん。そんな感じがする。
で、そう考えると、生まれた時からインターネットに慣れ親しだ世代が社会に出てきたとき、なにか凄いことが起きるような気がしてくるのである。